大橋武夫先生
1906年~1987年、愛知県蒲郡市出身、戦前は第12軍参謀・東部軍参謀・53軍参謀として活躍、終戦後激しい労働争議で倒産した企業を再建、昭和の経済波乱を独特の「兵法経営論」で育て上げられた。 昭和55年より「兵法経営塾」を主宰・塾長、その著作・講演・指導は昭和の政界・財界をはじめ、第一線で活躍された多くの人に支持され、平成・21世紀の今日までその名著は版を重ねられています。 「人は何によって動くのか」(PHPビジネスライブラリー1987年)は先生の最後の御執筆で古典の奥義・究極の「真理」が顕されています。
武岡淳彦先生
1922年~2000年、高知県出身、陸軍士官学校卒業後中国大陸出征、中隊長として作戦に従事、貫通銃創三回、個人感状拝受。終戦時、陸軍士官学校区隊長。戦後、警察予備隊入隊。防衛庁要職歴任 、1978年、幹部候補生学校長(陸将)にて退官。大橋武夫先生の嘱望により、大橋先生逝去の後も「兵法経営塾」「兵法経営研究会」「国際孫子クラブ」「武岡戦略経営研究所」等を通して兵法・戦略の理念を全国に普及され、多くのトップマネジメント、ビジネスマンの厚い支持を受けられた。 1992年、勲三等瑞宝章。「新釈・孫子」(PHP文庫、2000年)は先生の最後の御著書で究極の「兵法」です。
われわれ軍人はほんとうの
兵法を知らなかった・・・
わが社の前身の東洋時計㈱は、精工舎、シチズンと並んで、腕時計の三大メーカーといわれた名門企業であるが、敗戦後の経済危機において「どれか一つ脱落しなければ共倒れになる」といわれ、どこが最初に手をあげるかが、世間の興味をそそったものである。結局、東洋時計がシチズンより一週間早く倒産し、今日の明暗を分けることになったのである。一工場とはいえ、服部一族と並び称された時計業界のベテラン経営者が投げ出した会社を、ずぶの素人の私が再建したのであり、文字どおりの「武士の商法」がうまくいくはずはないというのが定評で、再倒産は時間の問題とされていた。
ところがなかなか倒産しないので、業界紙が見にき始めた。一般には倒産がニュースになるのであるが、私の会社はその逆で、倒産しないのがニュースになったのである。そんな頃のある日、日本事務能率協会の書籍課長だった番場征君(陸士55期、現ビジネス社社長)がやってきて、「貴方は兵法で経営している。それを書いてみませんか」という。どうかと思ったが、物はためしと、まず二~三回雑誌(事務と経営)に投稿してみたうえで、昭和三十七年に単行本を出した。
これが私の運命を変えた処女作「兵法で経営する」で、驚いたことには、いきなりベストセラーになった。この本が口火になって全国各地を講演してまわり、著書も三十余冊にのぼり、いつの間にか「兵法経営の提唱者」といわれるようになってしまった。しかし、当初は猛反撃を受けた。世論の総攻撃である。敗戦後間もないときのことであり、また、士族の商法は失敗するのが通り相場になっていたのだから、無理もない。「兵法で経営する」を出したとたんにまず週刊誌がとびついて冷やかした。インテリ層は顔をそむけ軽蔑し、左翼は「軍国主義!」と攻撃してきた。アメリカの新経営学をいち早く導入することにより、戦後の先覚者として、社会的地位を得ていた人たちは、利害関係と感情的な反発心から、むきになって私を叩き潰そうとした。これらの反対論は、ある意味ではもっともなことと理解できた。しかし、理解できなかったのは、真っ先に支持してくれるはずの、陸海軍の軍人仲間から白眼視されたことである。驚いて調べてみると、その原因には次のようなものがあった。
- われわれを差しおいて兵法を世間に持ち出すとは僭越だ。いったいお前は兵法を知っているのか。
- 兵法という、命を賭けた場面で生まれた神聖なものを、利益追求を目的とする商売に利用するとはけしからん。
- 兵法は経営には役立たない。現に、兵法に詳しいわれわれが、商法の失敗で苦しんでいるではないか。
- 兵法は敵をたおすという物騒ぎなものである。ようやくやってきた平和時代にこんなものを持ち出すべきでない。
ここでフト・・・。私の脳裏に浮かんだのは「われわれはなぜ負けたのか?負けるような戦いを、先輩たちはなぜ始めたのか?」ということである。・・・。
どうもわれわれ軍人はほんとうの兵法を知らなかったような気がしだしたのである。そこで私は、兵法経営に反対する同僚、先輩、とくに陸軍大学校のベテラン兵学教官や、大本営の中枢人物であった人たちに、片っぱしから質問してみた。それは、「彼を知り己を知れば、勝すなわち危うからず。天を知り地を知れば勝すなわち全うかるべし」は孫子の名言ですが、「天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかず」の出典は?と聞くと、ほとんどの人が「それも孫子にある」と答える。ところが、これは孟子にあるのだ。白状すると、私自身、人に質問されて恥をかいているのだから、人が間違っても非難するには当たらないのであるが、非難すべきは、兵法に詳しいはずの、プロたるわれわれの兵法知識がこの程度だったことである。また私の著書を読んだり、講演を聞いてファンレターをくださる方方には、まったく思いがけないようなことで感激しておられることがあり、中には兵法を魔法か手品かのように期待している人さえある。要するに、兵法経営に反対する人も賛成する人も、そして私自身も兵法を知らなかったのであり、その原因は兵書を読む暇がないことにある。以来、私はできるだけ著書の巻末に、兵書の一部を抜粋して付記することにした。
そして昭和五十一年には、ややまとまったものになったので、「兵書抜粋」として自費出版し、昭和五十二年に「兵法で経営する」が復刊されるにあたって、その付録とした。--- 昭和53年(1978年)「日本工業新聞社」「兵書研究」兵書入門より ---
1962年「兵法で経営する(初版)」 |
1977年「兵法で経営する(復版)」 |
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1978年「兵書研究」 |
1976年「兵書抜粋」 |
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日本は目的を誤っていた
兵法は「目的を誤ってはならない。目的と目標とははっきり区別せよ」と主張しているが、我々はこの簡単な原則をマスターできなかったようである。
近代日本の世界戦略の目的は「世界の資源と販路(市場)の公平なる再配分」であった。我々は日露戦争の国難を辛うじて切り抜け、その勢いに乗じて必死に働いたが、国民の生活はさっぱりよくならず、先年日本中を騒がせたテレビの「おしん」のような状態、たとえば愛しい娘をたった三十円で売らねばならないような窮境に陥ってしまった。そこで改めて国外に眼をやってみると、先進国が世界中の資源と販路(市場)を独占しており、それが我々の貧困の原因であることがわかった。このため日本は昭和初期以来、この両者の公平なる再配分を国際的に主張してきた。思えば第一次世界大戦も、出遅れたドイツがこれを要求し、これを既得権として拒否するアングロサクソンとの戦いだったのだ。また、これが我が国で起こった三月事件、十月事件、五・一五事件、二・二六事件などの昭和革新運動の原因であり、満州事変、支那事変、大東亜戦争、第二次世界大戦の底流をなしていたのである。資源と販路(市場)の再配分を主張する日本の世界戦略が「敵」とすべきものは、当時世界中のそれを独占していたアングロサクソン民族とくにイギリスでなくてはならない。それなのに日本は中国とアメリカを敵としてしまった。中国は共同して防戦すべきパートナーであり、アメリカはイギリスに躍らされていたダミーであった。またドイツが主敵としたのは、第一次世界大戦ではフランスであり、第二次世界大戦でドイツが戦って国をすり減らしたのはソ連である。どうもおかしい。どうしてそうなったのか、百年さかのぼって年表をしらべてみると、アングロサクソン民族の世界戦略がはっきり浮かび上がって来る。我々はどうしてこれに気付かなかったのであろう。我々がこれをはっきり認識せず、的確に対処できなかったのは、日本の世界戦略が確立していず、あるいは確立した世界戦略を適切に実行する組織と人物が無かったためではなかろうか。日本とドイツが世界の資源と販路(市場)の公平なる再配分を要求したのは正しいが、その実現のために武力に依存したのは不幸であった。アングロサクソンが世界の資源と販路(市場)を独占したのは、我々に先立ってこれに着眼し、我々が他のことに気を奪われている間に必死の努力をした賜である。これを強引に「よこせ」と言えば怒るに決まっている。我々は共通の利益を掲げて話し合う方式によらねばならない。孫子の「上下欲を同じくすれば勝つ」の兵法である。そしてこれを妨げするものは「戦争」と「保護貿易主義」であることを認識しなくてはなるまい。
-- 大橋先生著 「チャーチル」 アングロサクソンの世界戦略 (1985年 マネジメント社)より --
なぜ敗けたのか
創業は易く守成は難しということわざがある。日本陸軍史はこの言葉がそのままあてはまる。

建軍から日露戦争までの四十年を、近代陸軍の創業とみれば、その後三十五年は守成だ。守成の末期の舵取りの誤りは、すでに守成の始まりの日露戦争後処理に、その芽がでていた。日本陸軍は十五年戦争に自ら進んでその幕を閉じたようにみられるが、その方向はすでに日露戦争後にきまっていたのである。日露戦争の目的は、ロシアの南下政策を阻止することであったが、それが成功し、さらにその結果南満州に願ってもない大きな獲物を得てみると、こんどはそえを手放すのが惜しくなった。中国マーケットへの進出に、欧州列強に一歩遅れていたアメリカが、日露戦争に勝たせてやったお礼にと、南満州鉄道の買収を要求し、日本がそれを蹴ると他の利権を手をかえ品をかえて要求してきたのをさらに蹴ったのが、日米抗争の発端であった。その結果アメリカと中国をむすびつけることになってしまった。国際関係でも、個人の間と同じように、恩恵を受けたらそれ相当のお礼をするのが当然だが、明治維新で世界と初めてつきあうようになった日本には、その常識がわからなかった。それは戦後の日本にもいえる。日本が現在のように経済大国になったのは、輸出商品で世界市場を席巻したからだ。それでは困るとアメリカやヨーロッパは日本の市場開放を要求してきているが、日本の対応はすっきりしない。そこで相手側は躍起となってたたみかけてくる。いまの日本は経済大国にしてくれたお礼に相応なことをしなければならないときである。それを商慣行と、日本製品の優秀さばかりいっていたら、やがてまた世界から孤立する。かつては軍事的成功に酔って失敗の道へと踏み出したが、今度は経済的成功に酔って失敗への道に踏み出していないか、歴史をふり返って自己点検する時機がきている。 日本政府に国際社会でつきあっていく常識が不足していたように、日本陸軍にも日本の国の中でどうあるべきかを考える常識がなかった。国も軍も企業も個人も、その常識がなければ仲間とのつきあいができない。国際政治とはやさしくいえばこんなことではないだろうか。つきあいができなければ仲間はずれとなり、やがては孤立化し消えていくしかない。それを知ることが大切な教養の基礎ではないかと思う。アメリカの心理学者マズローは人間の欲求を五段階に分け、その第三段階を「帰属と愛情の欲求」としたが、仲間入りしたい、仲間はずれにならない欲求である。これは人間の本能であるとともに処世の哲理である。日本陸軍にこのような教養がなかったことが国家を敗戦の淵に陥れたことはまぎれもない事実だが、国際連盟の脱退に示されたように、国にも他国とつきあっていく常識がなかったことを忘れてはならない。ところでプロ野球を見ていてつくづく感ずることは、日本の野球は技(わざ)の野球、アメリカの野球は力の野球であることだ。力が技に勝ることは、助っ人と称する外人を各球団とも大金を出して、規定数の枠内で入れていることでわかる。日本陸軍の戦略・戦術は技のそれである。技とはわが実をもって敵の虚(スキ)を撃つ技術である。『孫子』はそれを虚実篇第六でのべる。しかし闘争の原理は優勝劣敗、力の強い方が勝つということだ。技は戦術の面では通用しても、戦略の面では通用しない。だから相手との力関係が大差のない戦争、日清戦争やロシアが十分に力を出さない段階で終った日露戦争では勝てた。しかし巨大戦力の相手と四つに組んだノモハンやアメリカとの戦いでは歯がたたなかった。そのような敵にはどうもがいても勝てないことを知らなかった原因は、日本陸軍の戦争研究がアカデミックでなかったからだ。このような技を重視する戦術を重くみるようになって以来、日本陸軍は物質戦力、兵器を軽視するようになった。だがランチェスターの法則では、弱者は一騎打ち型(局地・接近戦)の戦いをするか、武器効率(エクスチェンジレート)をあげる、つまり相手よりすぐれた武器をもって戦うしか方法はないことを教える。となれば国家の経済力、特に工業力が足らないならならば、資材を余り使わなくてもよい兵器の研究開発に努力すべきであった。日本人にはその能力は十二分にあるのだから、精神力の向上とともに、技術度の高い兵器研究の開発にとりくむべきでなかったか。ところが実情は考えられないぐらい「兵器資材」つまり「もの」に対して冷淡になってしまったのである。これも先の戦略戦術同様、戦争の研究がアカデミックでなかったからにほかならない。日本陸軍は終戦のとき、実に六百四十万人いた。しかしこれだけ巨大な組織でありながら、不思議なことに日本陸軍にはその管理の原則つまり組織論がない。一部参謀の専横な振舞や、関東軍の謀略、皇道派青年将校の部隊を使っての要人襲撃の暴挙などは、まともな組織論がなかったからだと言ってもいいすぎではない。アメリカが南北戦争のあと大工業国に成長していく過程で、多民族を擁する組織を、合理性、人間性、システム性、条件性、適応性、生産性の面から追及して組織論を確立し実地に活かした苦労を日本人は知らない。しかも日本人独特の阿吽(あうん)の呼吸や酒場のノミュニケイションによる情報交換や意思の疎通などに頼るだけでは、これからの産業構造の変化のなかで、組織論の不在をカバーしていけるものではない。日本陸軍の組織論不在は、組織は牙(きば)をむく、組織は目的から逸脱する、組織は統一行動をしないものである、などさまざまな欠陥をもつことを教訓として知ることができる。また日本陸軍のリーダーシップは、命令の絶対性を強調するあまり、愛の統率を忘れていた。陸軍に人間的統率がなかったのは、「義は山獄より重く、死は鴻毛(オオトリの羽、きわめて軽いもののたとえ)より軽し」の軍人勅論に基づくが、愛の統率の根源は生命の尊厳、人間尊重の思想である。徳川時代の死の美学を重んずる武士道を継承した日本陸軍にそれを求めるのは無理だったかもしれないが、ここにも現代のリーダーシップを考えるうえで、大きな教訓が残されている。日本陸軍を批判し罵倒するのはよい。だが日本近代史の骨格は、日本陸軍史であるといえるほどの高い比重を占めていたという厳然たる事実がある以上、これからの日本にとって参考とすべき多くの教訓を引き出すことができるのである。それを活かしてこそ過去は現代に役立つのだ。また歴史には絶縁がないのだから、戦後の企業や行政の組織と行動様式の点検と改善に示唆するところも少なしとはしないだろう。太平洋戦争の直前に陸軍士官学校を卒業し、日本陸軍の下級指揮官として太平洋戦争を戦った筆者は、日本陸軍に限りない愛着をもつと同時に、またその後の陸上自衛隊の勤務および退官後の兵法研究を通じて学んだ知識から、さまざまな批判をもつものである。
-- 武岡先生著 「日本陸軍史百題」 なぜ敗けたのか (1985年亜紀書房)より --
戦略と謀略
--「六つの国家戦略」--

一、国際情勢を日本に有利に導いた外交工作、とくに「日英同盟」
二、ロシアの内部崩壊を策した明石元二郎の「謀略工作」
三、開戦時に手を打った金子堅太郎の「終戦工作」
四、わが戦費を調達し、敵の資金源を絶った高橋是清の「資金工作」
五、陸軍、海軍の「軍事行動」
六、満州作戦の舞台裏で活躍した「特別任務班」
ピンチとチャンスは同じ姿をしている。そのため、同じ状況でも、名将はこれをチャンスと見、凡将の目にはピンチにうつるようなことがおきるのである。れわれの場合でも、絶対絶命のピンチが、心のおき所を変えて見直すことによってチャンスに変わることが多い。
われわれの場合でも、絶対絶命のピンチが、心のおき所を変えて見直すことによってチャンスに変わることが多い。どうしてもチャン スに変わらない場合には、チャンスに変えるに必要な手を打たねばならない。わが国史上最大のピンチといわれる日露戦争においては、われわれの父祖は六つの戦略を総合行使して、これをチャンスに変えるという、「国家戦略」の傑作を演出している。総合戦略は非常に効果的である。各戦略が相互に反応して、爆発的なエネルギーを発揮するからである。
なお「正を以て合し、奇を以て勝つ - 孫子 - 」といわれているように、総合戦略のそれぞれは違った性質のものが必要である。もちろん謀略もその中に入るが、謀略の本来は「人をだますこと」ではない。激烈で複雑な国際競争の行われている世界で、国家として生きていくためには、たんなる政治・外交・戦略・戦術ではなく、これらを総合したもっと強力・広範で、人間の本質を踏まえた「国家戦略」というものが必要である。
ほんとうに疲れた。・・・・今までのどの本を書いた時よりも、くたくたになってしまった。どうも不思議である。事実をそのまま書きならべているだけなのに、非常な迫力を感じて、圧倒されるのである。必死の思いの人間が、全力をつくしてやりとげた、すさまじい事実が展開してくるからであろう。・・・・・・各国庶民の交流が平和のもとである。この当時、(明治37年・日露戦争当時)アメリカ人は熱狂的に日本贔屓であった。あれを思えば、今日、密接な経済協力関係にあり、日米安保の友好を保持しているのは当然で、先年の太平洋戦争などは、どうしてああなったものか?むしろ理解に苦しむものがある。また大東亜戦争後、スターリンは満州に大軍を進めて「日露戦争の仇を討った」と呼号し、多くの日本人をシベリアに連行して苦しめたが、これもおかしい。日露戦争が日本とソ連の合作であることは、ソ連共産党史上でも明瞭であり、レーニンなどの下で活躍したスターリン青年は、自らの経験で承知しているはずである。国家関係の調整は首脳者間の折衝だけでは十分に行われない。政治家は時に心にもないことを言い、国家代表を意識した者の発言では、本心を伝えあうことは困難で、ともすれば誤解を生みやすい。庶民の直接交流が必要だと、この頃とくに痛感する次第である。
--- 大橋先生著「戦略と謀略」(マネジメント社1978年)まえがき・書きおえてより ---
新釈「孫 子」
二五〇〇年前の兵書がなぜこのように現代に通ずるか。他の古典はそうでないとはいわないが、『孫子』の場合は顕著である。理由はいくつかある。
その第一は、兵書でありながら戦争を人類の敵とみていて、好戦的でないことだ。これは『孫子』を熟読した結果わかったことである。著者の孫武は、人間は安定した社会体制の下で協同で仕事をして豊かな人生を送り、天寿を全うするのが最も望ましいと考えていたようだ。黄河文明の研究成果と思うが、安定した豊かな人生を送るのが幸福とみていることはまことに現代的である。しかしこの考え方は、身分制度の厳しい乱世の春秋時代の社会通念下では異端である。だから当時の社会の歴史学的研究からは、『孫子』はかえって理解しにくいのではないかとさえ思う。『孫子』の理解には、むしろ『孫子』そのものを熟読玩味するしかないのではないか。それだけ『孫子』の著者の意識は進んでいたのである。
天野鎮雄博士は、「孫子は宇宙の目から戦争を捉えている」と述べているが、換言すれば、「現代的センス」で戦争を捉えているということではなかろうか。第二は自然界の原理や人間の性をよく研究し、その仕組みやルールに余計な彩りを加えずに用兵原則を作っていることだ。自然界の原理や人間の性は、二五〇〇年前も今も変わらない。むしろ物質文明が進んでいないだけに、自然界の仕組やルールは捉えやすい。とはいえ慎重な『孫子』は、それを『易』の二元論を研究し、黄河文明を作った原理から捉えているのである。
中略・・・このように『孫子』はすぐれた書である。だが現代の書物に比し、"簡古隠微"(かんこいんび、簡単で古色を帯び、実体がかすかでわかりにくい)といわれるほど解読がむずかしい。簡潔すぎる文章の壁、兵書解読に必要な軍事知識の壁、それも目に見える戦術的用兵ではなく、その奥にあって戦術的用兵を動かしている戦略原理の壁である。
さらにその戦略原則を処世、経営、ビジネス面に活かすには、軍事と経済常識をもってする橋渡しが必要だ。これらの障害除去は、大地震直後の瓦礫に埋もれた人命救出にも似ているが、その瓦礫を少しでも取り除いて、読者諸賢の理解を容易にするように努めたのが本文庫版である。
-- 武岡先生「新釈 孫子
」(PHP文庫 2000年6月 おわりに・本書を活用し「孫子」を学ぶ人へより --