Military Art from T.Ohashi T.Takeoka
兵法は「目的を誤ってはならない。目的と目標とははっきり区別せよ」と主張しているが、我々はこの簡単な原則をマスターできなかったようである。近代日本の世界戦略の目的は「世界の資源と販路(市場)の公平なる再配分」であった。我々は日露戦争の国難を辛うじて切り抜け、その勢いに乗じて必死に働いたが、国民の生活はさっぱりよくならず、先年日本中を騒がせたテレビの「おしん」のような状態、たとえば愛しい娘をたった三十円で売らねばならないような窮境に陥ってしまった。そこで改めて国外に眼をやってみると、先進国が世界中の資源と販路(市場)を独占しており、それが我々の貧困の原因であることがわかった。このため日本は昭和初期以来、この両者の公平なる再配分を国際的に主張してきた。思えば第一次世界大戦も、出遅れたドイツがこれを要求し、これを既得権として拒否するアングロサクソンとの戦いだったのだ。また、これが我が国で起こった三月事件、十月事件、五・一五事件、二・二六事件などの昭和革新運動の原因であり、満州事変、支那事変、大東亜戦争、第二次世界大戦の底流をなしていたのである。資源と販路(市場)の再配分を主張する日本の世界戦略が「敵」とすべきものは、当時世界中のそれを独占していたアングロサクソン民族とくにイギリスでなくてはならない。それなのに日本は中国とアメリカを敵としてしまった。中国は共同して防戦すべきパートナーであり、アメリカはイギリスに躍らされていたダミーであった。またドイツが主敵としたのは、第一次世界大戦ではフランスであり、第二次世界大戦でドイツが戦って国をすり減らしたのはソ連である。どうもおかしい。どうしてそうなったのか、百年さかのぼって年表をしらべてみると、アングロサクソン民族の世界戦略がはっきり浮かび上がって来る。我々はどうしてこれに気付かなかったのであろう。我々がこれをはっきり認識せず、的確に対処できなかったのは、日本の世界戦略が確立していず、あるいは確立した世界戦略を適切に実行する組織と人物が無かったためではなかろうか。日本とドイツが世界の資源と販路(市場)の公平なる再配分を要求したのは正しいが、その実現のために武力に依存したのは不幸であった。アングロサクソンが世界の資源と販路(市場)を独占したのは、我々に先立ってこれに着眼し、我々が他のことに気を奪われている間に必死の努力をした賜である。これを強引に「よこせ」と言えば怒るに決まっている。我々は共通の利益を掲げて話し合う方式によらねばならない。孫子の「上下欲を同じくすれば勝つ」の兵法である。そしてこれを妨げするものは「戦争」と「保護貿易主義」であることを認識しなくてはなるまい。 -- 大橋先生著 「チャーチル」 アングロサクソンの世界戦略 (1985年 マネジメント社)より --
創業は易く守成は難しということわざがある。日本陸軍史はこの言葉がそのままあてはまる。建軍から日露戦争までの四十年を、近代陸軍の創業とみれば、その後三十五年は守成だ。守成の末期の舵取りの誤りは、すでに守成の始まりの日露戦争後処理に、その芽がでていた。日本陸軍は十五年戦争に自ら進んでその幕を閉じたようにみられるが、その方向はすでに日露戦争後にきまっていたのである。日露戦争の目的は、ロシアの南下政策を阻止することであったが、それが成功し、さらにその結果南満州に願ってもない大きな獲物を得てみると、こんどはそえを手放すのが惜しくなった。中国マーケットへの進出に、欧州列強に一歩遅れていたアメリカが、日露戦争に勝たせてやったお礼にと、南満州鉄道の買収を要求し、日本がそれを蹴ると他の利権を手をかえ品をかえて要求してきたのをさらに蹴ったのが、日米抗争の発端であった。その結果アメリカと中国をむすびつけることになってしまった。国際関係でも、個人の間と同じように、恩恵を受けたらそれ相当のお礼をするのが当然だが、明治維新で世界と初めてつきあうようになった日本には、その常識がわからなかった。それは戦後の日本にもいえる。日本が現在のように経済大国になったのは、輸出商品で世界市場を席巻したからだ。それでは困るとアメリカやヨーロッパは日本の市場開放を要求してきているが、日本の対応はすっきりしない。そこで相手側は躍起となってたたみかけてくる。いまの日本は経済大国にしてくれたお礼に相応なことをしなければならないときである。それを商慣行と、日本製品の優秀さばかりいっていたら、やがてまた世界から孤立する。かつては軍事的成功に酔って失敗の道へと踏み出したが、今度は経済的成功に酔って失敗への道に踏み出していないか、歴史をふり返って自己点検する時機がきている。 日本政府に国際社会でつきあっていく常識が不足していたように、日本陸軍にも日本の国の中でどうあるべきかを考える常識がなかった。国も軍も企業も個人も、その常識がなければ仲間とのつきあいができない。国際政治とはやさしくいえばこんなことではないだろうか。つきあいができなければ仲間はずれとなり、やがては孤立化し消えていくしかない。それを知ることが大切な教養の基礎ではないかと思う。アメリカの心理学者マズローは人間の欲求を五段階に分け、その第三段階を「帰属と愛情の欲求」としたが、仲間入りしたい、仲間はずれにならない欲求である。これは人間の本能であるとともに処世の哲理である。日本陸軍にこのような教養がなかったことが国家を敗戦の淵に陥れたことはまぎれもない事実だが、国際連盟の脱退に示されたように、国にも他国とつきあっていく常識がなかったことを忘れてはならない。ところでプロ野球を見ていてつくづく感ずることは、日本の野球は技(わざ)の野球、アメリカの野球は力の野球であることだ。力が技に勝ることは、助っ人と称する外人を各球団とも大金を出して、規定数の枠内で入れていることでわかる。日本陸軍の戦略・戦術は技のそれである。技とはわが実をもって敵の虚(スキ)を撃つ技術である。『孫子』はそれを虚実篇第六でのべる。しかし闘争の原理は優勝劣敗、力の強い方が勝つということだ。技は戦術の面では通用しても、戦略の面では通用しない。だから相手との力関係が大差のない戦争、日清戦争やロシアが十分に力を出さない段階で終った日露戦争では勝てた。しかし巨大戦力の相手と四つに組んだノモハンやアメリカとの戦いでは歯がたたなかった。そのような敵にはどうもがいても勝てないことを知らなかった原因は、日本陸軍の戦争研究がアカデミックでなかったからだ。このような技を重視する戦術を重くみるようになって以来、日本陸軍は物質戦力、兵器を軽視するようになった。だがランチェスターの法則では、弱者は一騎打ち型(局地・接近戦)の戦いをするか、武器効率(エクスチェンジレート)をあげる、つまり相手よりすぐれた武器をもって戦うしか方法はないことを教える。となれば国家の経済力、特に工業力が足らないならならば、資材を余り使わなくてもよい兵器の研究開発に努力すべきであった。日本人にはその能力は十二分にあるのだから、精神力の向上とともに、技術度の高い兵器研究の開発にとりくむべきでなかったか。ところが実情は考えられないぐらい「兵器資材」つまり「もの」に対して冷淡になってしまったのである。これも先の戦略戦術同様、戦争の研究がアカデミックでなかったからにほかならない。日本陸軍は終戦のとき、実に六百四十万人いた。しかしこれだけ巨大な組織でありながら、不思議なことに日本陸軍にはその管理の原則つまり組織論がない。一部参謀の専横な振舞や、関東軍の謀略、皇道派青年将校の部隊を使っての要人襲撃の暴挙などは、まともな組織論がなかったからだと言ってもいいすぎではない。アメリカが南北戦争のあと大工業国に成長していく過程で、多民族を擁する組織を、合理性、人間性、システム性、条件性、適応性、生産性の面から追及して組織論を確立し実地に活かした苦労を日本人は知らない。しかも日本人独特の阿吽(あうん)の呼吸や酒場のノミュニケイションによる情報交換や意思の疎通などに頼るだけでは、これからの産業構造の変化のなかで、組織論の不在をカバーしていけるものではない。日本陸軍の組織論不在は、組織は牙(きば)をむく、組織は目的から逸脱する、組織は統一行動をしないものである、などさまざまな欠陥をもつことを教訓として知ることができる。また日本陸軍のリーダーシップは、命令の絶対性を強調するあまり、愛の統率を忘れていた。陸軍に人間的統率がなかったのは、「義は山獄より重く、死は鴻毛(オオトリの羽、きわめて軽いもののたとえ)より軽し」の軍人勅論に基づくが、愛の統率の根源は生命の尊厳、人間尊重の思想である。徳川時代の死の美学を重んずる武士道を継承した日本陸軍にそれを求めるのは無理だったかもしれないが、ここにも現代のリーダーシップを考えるうえで、大きな教訓が残されている。日本陸軍を批判し罵倒するのはよい。だが日本近代史の骨格は、日本陸軍史であるといえるほどの高い比重を占めていたという厳然たる事実がある以上、これからの日本にとって参考とすべき多くの教訓を引き出すことができるのである。それを活かしてこそ過去は現代に役立つのだ。また歴史には絶縁がないのだから、戦後の企業や行政の組織と行動様式の点検と改善に示唆するところも少なしとはしないだろう。太平洋戦争の直前に陸軍士官学校を卒業し、日本陸軍の下級指揮官として太平洋戦争を戦った筆者は、日本陸軍に限りない愛着をもつと同時に、またその後の陸上自衛隊の勤務および退官後の兵法研究を通じて学んだ知識から、さまざまな批判をもつものである。 -- 武岡先生著 「日本陸軍史百題」 なぜ敗けたのか (1985年亜紀書房)より --
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1982日本工業新聞社
1976陸戦学会
1978日本工業新聞社
1979戦記出版会
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