「兵法経営塾」
大橋先生・武岡先生の残された兵法経営塾・兵法経営研会・国際孫子クラブ等の情報を紹介しています。
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兵法経営塾(ゼミ) | 兵法経営塾 |
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「兵法」は経営の
ソフトウェアである。
わたしは社長として、戦後、新経営法の導入に苦労した。それが理解できなかったわけではない。理解したものを人びとに実行させる方法を知らなかったのである。このことは現在にも通じる。すさまじい勢いで革新を続けている新経営法を人間に適用するもの、それが兵法だと信ずる。
兵法経営塾ではどんなことを講義しているのか?とよく聞かれる。
そんなだまし討ち的なもので経営できるものか・・・。と思っての質問であろうが、それも無理からぬことで「兵法はトリックなり」と、多くの人が思いこんでいるのである。しかし、兵法は決して策ではない。堂々たる決戦は策では勝てないのである。
兵法の要は統率である。すなわち情理をつくした統御と的確なる指揮すなわち合理的な判断、勇気ある決心、不屈な実行力およびそれを支える「かつ教えかつ戦うオン・ザ・ジョブ・トレーニング」であり、組織力を効果的に発揮する極意である。
元来経営と兵法とは異質のものであるが、この組織力を効果的に発揮することを願望する点において共通する。兵法による経営はここを狙うのである。
われわれの兵法経営塾は昭和五十五年十月に帝国ホテルで開講してから、すでに四年目を迎えている。12ヶ月が一コースであるから塾生の方々は一年で交代するはずであるが、連続受講して三年になる方が十七人、四年の方が十人ある。
激動する経済情勢下において、経営の中枢にあって活躍している多忙な方々が三年も四年もその貴重な時間をさいて下さっている事実はなみのことではなく、わたしが終生の誇りとするところである。
もっとも、こんな事態は当初から予期したものではなく、自然にこうなってしまったのである。ゼミの内容がよくてこうなったのではあるまい。兵法経営をテーマにして各界の一流の士が顔を合わせている間に、月に一度ここに顔を出すことにより、心の安らぎを与えられる独特のムードが醸成されているのが原因かも知れない。なにがほんとうの原因か、実のところわたし自身にもよくわからないが、ともかく兵法経営塾の初級コースで行うもの二十一講と全期にわたるカリキュラムを掲げて、読者諸賢のご批判を仰ぎたい。昭和五十九年四月 大橋武夫
--- 昭和59年 マネジメント社「兵法経営塾」まえがきより ---
兵法経営塾を作る
私が兵法経営塾を作ろうと思ったのは約十年も以前のことである。
昭和三十七年に処女作「兵法で経営する」を発表して以来、あちこちで講演をたのまれるが、多くの場合二時間程度で終わるため、兵法経営の入り口でとまってしまう。また、集まる方の人数が多いため、一番大切な、裸の人間同志のぶつかり合うところまで話が進まない。
なんとかして「兵法経営塾」を作りたいと念願し、会う人ごとに、こんな私の夢を話していた。
「仕事をするには、まず『旗をあげて』自分の企図を明示すべし。必ず良い情報が集まり、協力者も現れる」という、私の年来の主張を実行に移したわけである。そして十数年もたった昭和五十四年に宇部興産に講演に行ったとき、同期生の松田武副社長(元航空幕僚長)に案内されて、萩の松下村塾を見せてもらった。実は私がここへ来たのは初めてではないが、妙に心をひかれるものがあり、家へかえってさっそく近くの松陰神社へ行き、社前にある松下村塾と同じように作った建物を見、「そうだ!これを家の前の空き地に作ろう」と心にきめ、折よくやって来たマネジメント社の小島鴻一編集長に話して、良い気分で計画を進めていた。
三十年近くも社長をしたのだから、このくらいの社会奉仕をしなければ申訳ないとも思っていたのである。ところが数日たって、ひょっこり小島氏がやってきた。ブレーン・ダイナミックス社の前田滋社長と二人である。結局「こんな所ではじめても三流の人間しか集まらない。一流の場所で一流の人を集めてやりましよう」ということになり、すべてを前田社長の方でお膳立てしてもらい、私はただ講義をすればよいという大変ありがたいことになり、五十五年十月開講ときまった。でき上がったパンフレットを見ると一コース十二ヶ月とある。会費を前納していただくとなると、欠講は許されない。
私も人間であり、五十二年に心筋梗塞をやっていて、しかも年齢は七十四歳である。どうしても私にかわって後をやってくれる人を探しておかねばならないと思って、広く見渡したがどうにも適任者が見当たらない。「人は多いが希望する人材は少ない」という年来の主張を思い出していたとき、ふと頭に浮かんだのが、先来、陸上自衛隊幹部学校(旧陸軍大学校に相当する)に講演に行ったとき、昼食をともにしたことのある副校長の武岡淳彦氏である。
その後どうしたかと調べると、陸将、幹部候補生学校校長で退職し、目下安田火災の顧問だとわかったので、さっそく来てもらって、ともかく私の隣に座っていてくれることになった。これで私がいつ倒れても、お客様に迷惑をかけることはなくなった。このピンチヒッターは私よりも打率がよいからである。もう一つの心配は、果たしてお客さん(塾生)が集まってくれるか?ということである。「兵法で経営する」を出版したとき、マスコミの袋叩きにあい、先輩からは「命を賭けた神聖なる兵法を金儲けの道具にするとはけしからん」とお叱りを受けた経験があるので、こんどもどうなるかと心配になった。「十二ヶ月などと言わないで、六ヶ月ぐらいにしたら」というと、「ともかく一ヵ年やってみましよう」という前田社長の積極意見で発動したら、三十人近く応募者があった。私は「十人でよい」と言っていたので、大いに喜んだ。時世の変化であり、著書が四十冊近くなって、私の主張を受け入れて下さる同志がふえたことは何より嬉しい。それにしても、このすさまじく変化する経済情勢の中で、最も多忙な職にある方々が三年も四年も引き続いて参加して下さるということは、思えば驚異に値することである。期せずしてできあがったことであるが、この事実は、兵法経営塾がわたしの人生中の最大にして、最も貴重な仕事であることを示すものであり、感謝に堪えない。私は七十四年かけて得たものをこの方たちに受け取ってもらい、古今東西の先人たちが命を賭けて築き上げたものを現代に役立て、よりよいものにして後世に伝えてもらいたいと、大いに緊張している次第である。
--- 昭和59年(1984年) マネジメント社「兵法経営塾」兵法経営塾を作るより ---
「統帥綱領」と「統帥参考」
の統帥権について
「統帥綱領」は1928年(昭和3)に日本陸軍の高級指揮官(方面軍司令官・軍司令官)に対して作戦遂行及び国軍統帥の大綱を示すために制定されたものである。敗戦時に軍の最高機密として一切焼却されたと云われる。1962年(昭和37)に偕行社の有志の手で「統帥綱領・統帥参考」として復元刊行されたがやがて絶版となった。その後、偕行社の理事長をされていた大橋武夫先生の手により1972年(昭和47)「統帥綱領」(建帛社)として再刊され、今日まで貴重なロングセラーとなっています。しかし再刊されるにあたり「統帥参考」の統帥権・統帥と政治・その他一部は割愛されています。この原稿(御遺品)「第三篇 本篇に掲げるところは、情勢の大きな変化により、現代に適用することはできないが、参考のため記載する。」に始まるこの数十枚の原稿は遂に世に出ることはなかったものであるが大変重要な原稿(御遺品)です。本来、第一篇や第一章に掲げられたものは割愛(削除)されるようなテーマではなかったはずである。当時の様々な経緯が偲ばれます。
■ 大橋先生の三十三回忌にあたり、ご遺族より貴重な御遺品を賜りました。下記サイトにてご紹介させていただきます。
「大橋武夫先生三十三回忌」
https://www.heihou.com/pray-33/page-3.html
■ Mobile用の「兵書抜粋」のサイトです。
「兵書抜粋」統帥綱領
https://www.heihou.com/21-heihou/page-16.html
「史記・貨殖列伝」白圭伝
白圭,周人也。當魏文侯時,李克務盡地力,而白圭樂觀時變,故人棄我取,人取我與。夫歲孰取穀,予之絲漆;繭出取帛絮,予之食。太陰在卯,穰;明歲衰惡。至午,旱;明歲美。至酉,穰;明歲衰惡。至子,大旱;明歲美,有水。至卯,積著率歲倍。欲長錢,取下穀;長石斗,取上種。能薄飲食,忍嗜欲,節衣服,與用事僮仆同苦樂,趨時若猛獸摯鳥之發。故曰:「吾治生產,猶伊尹、呂尚之謀,孫吳用兵,商鞅行法是也。是故其智不足與權變,勇不足以決斷,仁不能以取予,彊不能有所守,雖欲學吾術,終不告之矣。」蓋天下言治生祖白圭。白圭其有所試矣,能試有所長,非茍而已也。
「白圭」は周の人なり。魏の文候の時「李克」が農耕にはげみ地力を尽くすことを説いたが、「白圭」は商いの時変を観るのを楽しみ、人が棄てた時は取り、人が取る時は売り払った・・中略・・白圭曰く、自分が財産を貯えるのは、伊尹や呂尚の謀(はかりごと)、孫呉(孫子・呉子)の用兵、商鞅の行法と同じである -- 略 --。
「司馬遷(前145~前86)」の「史記」は前91年頃の成立と云われる、この史記・貨殖列伝に登場する「白圭」は周の洛陽出身と云われるが、貨殖列伝の中で魏の「文候(前424~前387)に仕えた「李克」の農耕主義と並べて「白圭」の商業主義の功績を紹介している。その白圭の言葉として「蓄財(商い)の術の一つに孫子・呉子の用兵(兵法)を挙げている」・・・。孫武の兵書や呉起の兵書は既に白圭や司馬遷の時代に軍事だけでなく広く商い等にも活用されていた事を示すものである。わが日本に吉備真備がもたらした「孫子」は大江匡房、八幡太郎義家、戦国、武田信玄の「風林火山」等々を経て徳川幕府の「武経七書」、江戸時代の様々な軍学流派、幕末黒船を経て明治新政府の富国強兵は西洋兵学であったが一方で明治の商人「渋沢栄一」や「三輪善兵衛」等は「孫子」を活用したというのは著明な伝説である。あの大東亜戦争で盧溝橋から第53軍参謀で終戦を迎えられた大橋先生の「兵法で経営する」(1962年発行)」は敗戦後の復興の一つの象徴となり。1980年開講の「兵法経営塾」には上場企業の経営トップ、戦後創業の中小企業社長からコンサルタント等々、多くの昭和から平成の兵法経営者が集われた。その末端に席を頂いてそれら「兵法経営」と「兵法経営者」をその時代とともに直接まじかに見て来たが、孫子やマキャベリ、戦争論、三国志、項羽と劉邦、統帥綱領・作戦要務令の名前は出ても井原西鶴の「日本永代蔵」や「史記貨殖列伝」の名前は聞いたことは無かった。兵法経営塾に参加する以前、1978年頃に読んでいた史記(朝日新聞社)で伍子胥、韓信、張良に夢中になったが、ちくま学芸文庫「史記全8巻」(1995年)で初めて貨殖列伝の中の「白圭伝」を発見した。そして今やっと白圭伝の白文も手に入ったのでここに掲載することが出来た。
武岡先生の著書の中で「プリンシプル(Principle)とドクトリン(Doctrine)」を学ばせてもらった。兵法には、Principle(原理原則)ないしTheory(理論)といわれるものと、Doctrine(見解・政策)とがあり「兵学の原理(戦理)」は実際には極めて単純、明快なものに集約されてしまう。その時代(時勢)や国土(地勢)の特質の中で編まれた多くの兵書で述べていることは「ドクトリン(教義、方針、見解、政策)」と考えて解釈しなければならない。またドクトリンは各国の用兵当局(国防省等)がその時に自国にとって最も適切と考えた戦い方でもある。中国春秋時代に著された「兵書・孫子」も呉王・闔閭と将軍・孫武のドクトリンであったかも知れない。その「孫子」が2500年後も世界中で読み継がれて来たのは、そのドクトリンの所論が優れたセオリーやプリンシプルの普遍性で貫かれているという偉大な証である。
----2023/08/06-----